第55回 国際理解・国際協力のための全国中学生作文コンテスト 入賞作品紹介
賞 | 受賞者/題目 |
外務大臣賞 |
鳴門教育大学附属中学校 澤田 晴奈さん 「核兵器のない世界」にするために国連の中で日本がすべきこと |
文部科学大臣賞 | 弘前大学教育学部附属中学校 加藤 甫 さん 世界から貧困をなくすために国連は何をすべきか |
公益社団法人 日本ユネスコ協会連盟会長賞 |
盈進中学高等学校 高橋 悠太 さん 「核兵器のない世界」にするために国連の中で日本がすべきこと |
公益財団法人 日本国際連合協会会長賞 |
聖母被昇天学院中学校高等学校 山名 栞渚 さん 「核兵器のない世界」にするために国連の中で日本がすべきこと |
公益財団法人 安達峰一郎記念財団賞 |
郡山ザベリオ学園中学校 丹伊田 真央 さん 「核兵器のない世界」にするために国連の中で日本がすべきこと |
日本放送協会会長賞 | 豊島岡女子学園中学校 髙橋 ひまり さん 世界から貧困をなくすために国連は何をすべきか |
国際連合広報センター賞 | 広島女学院中学校 長坂 小如 さん
「核兵器のない世界」にするために国連の中で日本がすべきこと |
金賞 | 北海道教育大学附属札幌中学校 齊藤 ゆずか さん 「核兵器のない世界」にするために国連の中で日本がすべきこと |
鈴鹿中学校 若林 和 さん 「核兵器のない世界」にするために国連の中で日本がすべきこと |
|
さいたま市立大原中学校 磯上 潤奈 さん 世界から貧困をなくすために国連は何をすべきか |
|
銀賞 | 横手市立横手南中学校 藤谷 由佳 さん 世界から貧困をなくすために国連は何をすべきか |
京都府立洛北高等学校附属中学校 東 さくら さん 創設70周年を迎えた国連のこれからの使命 |
|
さいたま市立土呂中学校 川添 真理子 さん 世界から貧困をなくすために国連は何をすべきか |
|
佳作 | 開成中学校 佐川 弘晃 さん 「核兵器のない世界」にするために国連の中で日本がすべきこと |
私立滝中学校 長谷部 美優 さん 「核兵器のない世界」にするために国連の中で日本がすべきこと |
|
屋代附属中学校 柳澤 玲那 さん 「核兵器のない世界」にするために国連の中で日本がすべきこと |
|
豊丘中学校 小澤 梨々香 さん 「核兵器のない世界」にするために国連の中で日本がすべきこと |
|
宇和島市立城北中学校 森永 紗姫 さん 「核兵器のない世界」にするために国連の中で日本がすべきこと |
「核兵器のない世界」にするために国連の中で日本がすべきこと
外務大臣賞
徳島県 鳴門教育大学附属中学校 3年 澤田 晴奈
私の住んでいる徳島県のほぼ中央部に美馬市という小さな市があります。市の名前の由来は源頼朝の愛馬「池月」がここで生まれたからと聞いています。その美馬市にある小さなお寺「光泉寺」の境内に世界的に有名な物理学者の碑がひっそりと置かれています。碑の送り主はあの有名なアルバート・アインシュタイン博士です。そしてここにアインシュタイン博士の碑が置かれることになったひとつの物語が存在します。
アインシュタイン博士がその業績を評価されて有名になり、日本への講演旅行に向かう船の中で腹痛に苦しめられるという出来事が起こりました。その時、偶然同じ船に乗り合わせていた日本人外科医「三宅速(みやり)」博士の治療を受けて病気が治りました。それ以来、ふたりの間に国境を越えた友情が芽生えて交流が続きます。しかし、第二次世界大戦へと突入する激動の中で、アインシュタイン博士はドイツからアメリカへと渡り、やがて原子爆弾の開発に従事する道を歩み、三宅博士は疎開中の岡山で米軍機の空爆を受けて亡くなられます。戦後、三宅博士の死を知ったアインシュタイン博士は三宅博士の菩提寺である「光泉寺」に追悼文を寄せてそれが石碑に刻みこまれました。その内容は次のとおりです。「ここに三宅博士とその妻、三宅三保が眠っている。彼らはともに人類のしあわせのために尽くし、そしてともに人類の過ちのため犠牲になってこの世を去った。アルバート・アインシュタイン」
私が父に連れられ、そのお寺に行った昨年の夏の日は暑くて、セミの声がうるさかったことを覚えています。ただその石碑がある一角だけはほんのりと涼しくなぜか神聖な感じを受けました。アインシュタイン博士はアメリカに亡命後、原子爆弾に関わる仕事に従事しましたが、その原爆が日本に落とされたことを知り、たいへんショックを受けました。彼は美しい日本の風景に出会い、たくさんの心温かい人々と交わったという思い出があり、その体験が原爆のもたらす惨状を容易に想像させたからだと私は思います。アメリカ滞在中の湯川秀樹博士にアインシュタイン博士は泣きながら「原爆によって多くの日本国民を苦しめてしまいました。こんな私を許してください。」と謝り、その様子を見た湯川博士は「研究室の世界だけでなく、世の中のために生きよう。」と思い、平和活動に関わっていくことになったというエピソードもあります。
「想像力」、それこそが核兵器の製造や使用を抑止する原動力だと思います。身近な知人の死を聞かされ、遠い地で行われていた戦争が起こした悲劇を身をもって知り、自分の思い出の地や人々がこの世から消えてしまったという感覚ほど、人の心を動かすものはないのではないかと思います。日本が国連の中で「核兵器のない世界」を実現するために行うべき活動は、世界の国々や人々にこの「想像力」を持つことを働きかけることではないでしょうか。人間には巨大な力への憧れというものがあり、それが社会や世界へと向けられる時、核兵器の所有を選択させようとさせます。そこにはその結果がもたらすであろう未来というものが欠けています。日本だけが「唯一の被爆国」という大きな悲劇と引き換えに、その未来の姿を現実の出来事として体験しました。各国の人々を日本に招き、日本を見てもらい、日本人と触れ合ってもらいましょう。そして同時に彼らに自国のすみずみまで旅をしてみることを提案しましょう。そういう個々の体験が「想像力」をかきたてる源になるはずです。「失った時」に気づくのではもはや手遅れです。「失う前」に気づき、それを守るために想像して行動に移せる人々を世界中に育成していくことこそ、日本が国連の中で担っていくべき役割だと私は思います。
世界から貧困をなくすために国連は何をすべきか
文部科学大臣賞
青森県 弘前大学教育学部附属中学校 3年 加藤 甫
タイ王国バンコク。体にまとわりつくような湿度と熱気に街角に咲く蘭も萎れかかっていた。そんな南国で、溶けきらない氷がいつも僕の内側に触れているような、そんな落ち着かない気分で過ごしたのは、滞在中僕の目がある人々に吸い寄せられていたからだ。
物乞いをする老若男女。人が、特に旅行者が集まるような場所には必ず彼らの姿があった。高架鉄道の下。うだるような路上で母親が赤ん坊を僕の方に差し出し何かを訴えてきた。赤ん坊には蝿が沢山ついていて、母親の隣の幼児は、缶を持ってうつろな目で僕を見ていた。船着き場にはやせたおばあさんがいて僕の前に膝をついて手を合わせてお金を懇願した。また市場には、手足のない男の人がいた。彼は口でぼろぼろのコカコーラの紙コップをくわえ、目で自分の手足がないことを通行人に示唆していた。
あの貧しい人たちをどうしたら救えるのか。貧困はどうしたらなくなるのか。色々調べていく中で、教育が大事な鍵を握るということが分かってきた。貧困により教育が受けられないから、文字を読むことや、就職に有利な技術を習得することができない。よって収入のよい安定した仕事につくことができない。劣悪な環境の中、その子供たちが成長し結婚する。そうしてまた産まれた子供たちに貧困という負の連鎖が続いて行く。
貧困を断ち切るために国連がすべきことは、世界中の全ての子供たちに教育を授けることだ。何も目新しい話ではないかもしれない。現に今も国連は 「万人のための教育」 の実現を目指して頑張っている。しかし、ユニセフの報告によると、二0一五年現在十一人に一人が小学校に通えない、一億二千万人の子供や若者が学校に入学したことがないか、中退しているそうだ。
この状況をなんとか打開しなければいけない。例えばUN Schoolという寄宿制の学校を作ってはどうだろうか。僕は国連本部の土地が、国際的な領域で国連加盟国全ての国のものであるということを知った時に、現状では教育の普及が困難な紛争地や発展途上国の土地を国連が買って学校を建て、男女全ての学齢期の子どもたちに門を開くことはできないかと考えたのだ。国連が運営することで国の政情にとらわれることがない。寄宿制にすることで不衛生な環境から子どもたちを守り、さらに家庭は宗教などの慣習や束縛から逃れられることで、子供たちは毎日必ず登校することができる。三食をしっかり食べさせることで飢餓や栄養失調からも守ることができる。
そして何より学ぶことの面白さを体験できる。英単語を一つ覚える度に世界が近づくようなわくわく感、息をのむ歴史の面白さや憤りなど、学ぶ喜びは全世界の子供たちが持つ権利だ。また教育は人間に尊厳を与えてくれる。僕がタイで受けたショックは物乞いの行為そのものではなく、人間の尊厳の放棄にあったのだと思う。教育により人から施しを受けるのではなく、自立して物を生み出したり、人のためになる仕事をして自分の生計を支えたりすることが可能になる。
全世界全ての子供たちに教育の機会を与えるためには、国の枠を超えた、より活発な活動が必要だと思う。そしてそれは国連だからこそ可能なのではないだろうか。
“Leave no one behind” 誰も置き去りにしない。潘事務総長の言葉だ。僕がタイで感じた居心地の悪さは、彼らの間をすり抜けて置き去りにするしかなかった自分の無力さからなのだと、この言葉を見たときに気が付いた。将来僕は国連職員として貧困撲滅という素晴らしい目標の実現に携わりたい。もう誰も置き去りにしたくはないから。そのために今は教育が受けられる自分の環境に感謝しながら沢山のことを懸命に学びたい。
「核兵器のない世界」にするために国連の中で日本がすべきこと
公益社団法人 日本ユネスコ協会連盟会長賞
広島県 盈進中学高等学校 3年 高橋 悠太
「もう誰にも同じ思いをさせてはならない。」 これは復讐や敵対を越えた素朴で崇高なヒロシマ・ナガサキの被爆者の思想。私の原点だ。
被爆70年。被爆者の平均年齢は約80歳。彼らの証言を直接聞ける時間はあと10年もないと言われる。被爆者の生の声を、どう世界に発信すべきか。今、「被爆国日本」の知恵と勇気が問われている、と私は思う。
私は3年間、核兵器廃絶のための署名活動に参加してきた。行動指針は冒頭のことば。他校と合同で行うこの活動は今年8年目。これまで約33万筆を集め、すべて国連に提出。私は、この活動への参加は、被爆地ヒロシマに生まれ育つ者の義務であるととらえている。 活動中、こんな場面もあった。「私も被爆者よ。」9歳で被爆した女性が、署名の手を止め、静かに語った。「あなたたちがやらなければ、また戦争や原爆がくる。ありがとう。」この活動の上に昨年と今年、NPT会議に際し、先輩方が「ユース非核特使」として国連に派遣された。先輩方から聞いたこと。「国連内部で原爆展をやっていた。真剣に見入る世界の人々の姿を見て、世界がヒロシマ・ナガサキを注目していることを肌で感じた。」
「核兵器のない世界」にするために、国連の中で日本がすべきこと。私は、国連に被爆証言コーナーを設置することだと考える。国連を訪れた人に世界各国の言語に翻訳した証言を自由に聞いてもらう。そうすることで、冒頭の被爆者の思想を中心にその声が世界に発信される。それは同時に、核兵器のない世界の実現にむけた具体的アプローチとなろう。日本はその技術やノウハウをすでに持っている。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、多言語で被爆証言が聞ける。実体験に裏打ちされた被爆者の証言は平和を願う迫力あるメッセージであり、必ずヒロシマ・ナガサキをこれまで以上に印象づけることになろう。
被爆時12才だったI・Sさん(女性)。顔に火傷を負い、「あの日」を涙で語る。「『赤鬼だ!おばけだ!』と子どもたちに言われた。鏡に映った自分の顔。あごはのどに引っ付いていた。美しくなりたいんじゃない。ただただ、元に戻りたかった。」
広島県被団協の坪井直理事長はこう語る。「命の奪い合いの戦争は絶対反対。一瞬にして多くの命を奪う原爆は絶対悪。」また、潘基文国連事務総長は5年前、広島を訪れ、8月6日の平和記念式典でこうメッセージを発した。「国連は被爆者の方々と心を一つにし、核兵器のない世界という被爆者の理想を実現していく決意を固めています。」被爆証言コーナーは、両者の思いを結ぶものだ。
今年のNPT再検討会議。最終文書に盛り込まれなかった「世界の指導者たちの被爆地ヒロシマ・ナガサキ訪問」。これを実現するためにも、被爆証言コーナーの設置は有効だ。
現在、核兵器のない世界の実現は難しいと言わざるを得ない。だが、「Never give up」(坪井直さんの口癖)。決してあきらめてはならない。世界中の全ての人々の命が尊重され、戦争のない世界の実現のために、核兵器廃絶は必ず、成し遂げなければならない私たち日本の、いや、人類の悲願である。
私たちの平和は、これまで命がけで「ノーモア ヒロシマ・ナガサキ」を訴えてきた被爆者の方々の平和活動の上に成り立っていることを忘れてはならない。また、私たちは、かつて、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が広島を訪れ、こう言ったことも思い出すべきである。「ヒロシマを考えることは、核戦争を拒否すること。ヒロシマを考えることは、平和に対しての責任を取ること。」(1981年)
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」(ユネスコ憲章)。「被爆証言コーナー」は必ず、国連の平和の精神に合致し、そのための教育に寄与するものとなろう。
「核兵器のない世界」にするために国連の中で日本がすべきこと
公益財団法人 日本国際連合協会会長賞
大阪府 聖母被昇天学院中学校高等学校 3年 山名 栞渚
『核兵器』によって実際に被爆したのは、世界中で日本だけです。被爆によって日本には大きな被害がもたらされました。その事実を実際に経験のない私にもある程度は想像できるほどに戦争、そして核兵器については膨大な量の資料があります。それらは文章や絵にとどまらず、様々な形状をしています。私はその中でも合唱曲『消えた八月』に特に衝撃を受けました。
『熱い光の中で僕は一枚の絵になった。』『光に打たれて僕は壁にとけた。』などの生々しい描写に、初めて消えた八月を聞いたとき、原爆投下直後の情景が私の目の前に確かに浮かんだように感じました。その強烈な印象とともに、私が今まで目にしてきた戦争の情報がいかにやわらかな表現に直されていたのかを思い知らされました。
たった今まで存在していた人が、ついさっきあいさつを交わした人が壁にとけて影になってしまうこと、あまりの熱に体中の熱が蒸発して石像のように固くなってしまうことへの恐怖はどれほどだったのでしょうか。
私には想像もつきませんが、相手と自分の命運を分けたのはわずかな距離だけです。まさに運としか言いようがなく、そんな状況ではその幸運を大手を振って喜ぶこともできない。家族の安否もわからない。自身も重大な被爆症に悩まされることになるかもしれない。そのような状態におかれた方達の心細さと苦しさはどれほどだったのでしょうか。
こんなに酷いことがあったのですから、日本が『非核三原則』を掲げているのは当然のことだと私は考えます。むしろ、どうして今でも『原爆投下は戦争の終結に必要だった』という考えがあり、アメリカやロシアなど世界でも発言力の強い国が核兵器を所有しているのかが不思議でなりません。
この現状から「核兵器のない世界」へ変わっていくためには、「不安のない国交」が必要だと思います。そこで、平和にしようよ!一緒に世界平和を目指そうよ!と働きかけることよりも日本には唯一の被爆国として果たすべきことがあるのではないでしょうか。それは、原爆のおそろしさを世界に訴えることです。もちろん、今までにも何度も日本が訴えかけてきたことですが、被爆から七十年目を迎え、当事者が減ってだんだんと被爆という事実を間接的にしか知ることができなくなってきた今、日本だからこそ出来る訴えかけを内外にすべきです。『生身の人間』の語る惨状にどれほどの説得力があるか、私は祖父から戦争の経験を聞いて思い知っています。戦時中、少年だった祖父の記憶は、空襲や原爆などの経験はなかったのにもかかわらず、その当時の苦しい生活などが身近な人間の口から聞くことによって、今までのどんな話よりも私の胸に迫りました。
このように「不安のない国交」には日本の訴えは欠かすことのできない重要な要素だと思います。「理想を実現させようとする力」だけだは難しくても、「こうなったら絶対にいけない」という意志が加われば実現できることもあると考えるからです。国民を守るための威嚇を目的として存在しているはずの核兵器が、一触即発の事態を招きかねないことはありえるけれども絶対にあってはならないことだと思います。『威嚇』という目的が手段になってしまってはいけないのです。
だから、自国の国民を守ろうとして他国の国民を傷つけてしまう、という過ちが起こってしまう前に、その原因である核兵器を廃絶してしまう方がより確実だとは考えられないでしょうか。
日本が核兵器を使うことの大きな代償を訴えることで世界の国々が核兵器の存在自体の危険さを再認識し、「核兵器のない世界」に向かっていってほしいです。
私自身もこれかも「核兵器を所有する世界」の危うさを知り、考えていこうと思います。