第58回 国際理解・国際協力のための高校生の主張コンクール

参加者の皆さんと審査員

- 第58回(平成23年度) 入賞者発表 -

受賞者/演題
外務大臣賞 東亜学園高等学校 榎本 純さん
「日本は国連で何をすべきか」
法務大臣賞 八女学院高等学校 井上 萌
「日本は国連で何をすべきか ~支えられた歴史的事実を踏まえた上で~」
文部科学大臣賞 山梨英和高等学校 野中 愛理さん
「世界の平和と安定のために国連がすべきこと
~大きな橋渡しと小さな橋渡し-私が見た竹島と独島~」
財団法人
日本国際連合協会会長賞
佐世保西高等学校 永間 佑菜さん
「世界の平和と安定のために国連がすべきこと」
全国人権擁護委員連合会
会長賞
福島県立会津高等学校 遠藤 広樹さん
「日本は国連で何をすべきか - 伝えること-」
公益社団法人
日本ユネスコ協会連盟会長賞
秋田県立湯沢翔北高等学校 佐藤 瞳さん
「日本は国連で何をすべきか」
日本ユネスコ
国内委員会会長賞
富山県立中央農業高等学校 隂山 千鶴さん
「日本は国連で何をすべきか
~『国連生物多様性の10年』のために私ができること~」
財団法人
安達峰一郎記念財団賞
高水高等学校 浦崎 笑子さん
「世界の平和と安定のために国連がすべきこと」
日本放送協会会長賞 宮﨑県立宮﨑西高等学校 中村 由希帆さん
「世界の自然災害に対して国連と日本は何ができるか
~東日本大震災を通して~」
国連広報センター賞 フェリス女学院高等学校 高松 奈々さん
「日本は国連で何をすべきか」

入賞作品紹介

「日本は国連で何をすべきか」

外務大臣賞
東京都 東亜学園高等学校 3年 榎本純

中学二年生の夏、私は親の仕事の都合で日本に来ました。当時の私は日本語を話すことはもちろん、読み書きもまったくできませんでした。「これからここで生活していくんだ。」そう思うととても不安でした。二学期から中学校に通うことを考えると、夜も眠れないほどでした。さらに、私は言葉の壁のほかにもう一つ、大きな問題を抱えていました。それは当時の私が日本人に対してとても悪いイメージを持っていたということです。私の育った中国では満州事変から南京大虐殺にいたるまで、日本軍の残虐行為を強調する歴史観に基づいた教育がされており、更にマスコミの報道もそうした傾向に偏りがちなことも手伝って、依然としてそのような観点から現在の日本人を捉える傾向が強いからです。学校が始まってみると、心配していた通り授業は全く理解できず、それどころかクラスメイトとのコミュニケーションさえとれませんでした。「いったいどうしたら良いのだろう。」暗中模索、不安定な精神状態で毎日が孤独でした。

そんな私を助けてくださったのは、中学校の先生方でした。授業中はもちろん放課後も遅くまで、丁寧に熱心に私のために指導してくださいました。また、MIAというボランティア団体の方々も文法を中心とした日本語を親切に教えてくださいました。そうした方々の温かい気持ちがどんなにうれしかったことか。「この人たちは、偏見に囚われることなく、苦しんでいる私に手を差し伸べてくれている。国と国とのわだかまりに左右されることなく、心で私の心に近づき、交わりを持とうとしてくれいている。」そう感じた時、何かが私の中で変わり始めました。自分自身の心の目で日本人と向き合った時に見えてきたものは、それまでの自分が偏見に囚われて抱いてきた日本人のイメージとは大きく異なったものだったのです。

世界中には主観による認識の違いが溢れ、多様な文化が混在しています。これからの時代を生きる私達に必要なのは、それらの違いを互いに尊重したうえで、偏見に囚われることなく、自らの心の目で相手の心を見、交わろうとする気持ちなのではないでしょうか。そして、そうしたことこそ、国際社会の中で日本が率先してその力を発揮する機会でもあると思うのです。偏見を持って日本に来た私を温かく迎え入れてくれたように、日本には異質なものを温かく、寛容さをもって受け入れ、それをさらに良いものに発展させていくという歴史的な土壌があると思うからです。日本に来て四年しかたっていない私が、今、この場所で、日本の高校生として主張しているということも、日本の文化的土壌の寛容さではないでしょうか。

先日、日本語の勉強のために読んでいたある新聞に、民俗学者、宮本常一の日本人の来歴についての考察が紹介されていました。そこには「日本人の祖先はいくつかの時代に様々な海を越えてやってきた渡来人の雑種であり、日本は歴史的に移住者を受け入れることでその文化をつくり上げてきた。」とありました。こうした歴史的背景を持つ日本こそ、国と国とが分かり合い、よりよい関係を築くことに大きな役割が果たせるのではないかと思うのです。特に近代以降の日本は東アジアにおいて不幸な歴史がありますが、日本の歴史は東アジアの様々な文化を取り入れ、それらを融合させ、発展させることでつくられたものが多くあるのです。そんな日本にこそ、国連のなかで、全世界の人口の4分の1を占める東アジアの共存と友好の下支えの役割が求められていると思うのです。しかし、それはどこの国がリーダーになるとか、どこの国に従うとかいうことではなく、お互いに違いを尊重しながらも、理解を深め、お互いに受け入れ合いながら、それを発展させていくというものでなくてはなりません。

私はこれから、自分自身が日本に受けいれられたという経験を大切にし、将来は日本と中国の相互理解に貢献できる仕事につき、それを土台としながらも、世界に目を向け、国際社会における友好関係の向上のために力を注いでいく決意をしています。

「日本は国連で何をすべきか - 支えられた歴史的事実を踏まえた上で」

法務大臣賞
福岡県 八女学院高等学校 2年 井上 萌

信じられますか?日本が世界の国々から援助を受けていた時代があったことを。社会科の授業でこのことを学んだとき、私の知る今の豊かな日本からは想像もつかない事実に、大きなショックを受けました。関心を持った私は、先生に質問を繰り返したり図書館で調べたりする中で次のことを知りました。

第二次世界大戦後、戦渦で疲弊した日本は、何もかもが不足し、誰もが飢える中で復興を目指しました。そんな日本に、国連機関や世界のNGO団体、またアメリカやカナダ、メキシコ、チリ等多くの国々が手を差し伸べてくれました。新幹線や高速道路には世界銀行の融資によって建設されたものがあります。また、日本の若者を留学生として受け入れた多くの国々と、それを援助したWHO等の取り組みは、医師や技術者といった人材育成を進め、戦後の日本の自助努力を促しました。様々な国々の支援があったからこそ、今の日本がある。この歴史的事実を踏まえた上で「日本は国連で何をすべきか」というテーマに対し、次の二点に絞り提言したいと思います。

ひとつは国々の「自助努力支援」という日本の援助哲学を国連の中で構築すべきであると考えます。国連は世界の平和及び安全の維持のために唯一、世界の中心的役割を担うことのできる機関です。平和を妨げる紛争や病の根本的要因は貧困にあります。貧困の連鎖を断つためにはどうしても、基礎教育を充実させ、人々が安定した職に就けるサイクルをつくりだす必要があると考えます。戦後日本の若者を留学生として受け入れた多くの国々と、その学びを礎として復興を遂げた日本の過去の経験からも、自助努力を促す教育的支援の重要性を確信します。日本は今年初会合を果たした国連ウィメンの理事国として、女性に対する質の高い教育の重要性を世界に向かって訴えています。人類の資源である女性の力を活用して平和と安全を追求していくためにも、国連ウィメン理事国の日本は、女性に対する基礎教育や保険教育のため途上国での支援、政策の提言を積極的に展開すべきであると考えます。

ふたつには、世界中の人々にその恐怖を痛感させた、広島、長崎の「核兵器による被爆」、また原子力の管理がいかに困難であるかを世界に教えた福島の「原発事故による被爆」。人類に対する2つの警告が、「日本」という国土から不本意ながら発せられました。これ以上核の軍事利用、また民生利用によっても人々の命が脅かされることのないよう、日本は国際社会、とりわけ国連を通して、「核の軍事利用がいかに恐ろしく、いかに非人道的であるか」を説き続けるべきであると考えます。同時に、今回の東日本大震災、原発事故に対して日本は、必要な情報と終熄に至る経過、技術を世界に向かって誠実に発信すべきです。情報を積極的に開示し、共有することによって、この不幸な経験を世界的教訓とすることこそ、日本の義務であり、責任であると考えます。1年に1度、毎年秋に開催される国連総会が迫っています、総会に限らず、様々な国連機関で、不幸にして日本が背負った「原子力による負の遺産」に対して、国際社会での日本の役割を考え、行動することこそ、日本が国連ですべきことであると考えます。

潘基文国連事務総長は日本を訪ねられた際、

「世界の良心を体現するのが国連です。」

と言われました。国連は人々の幸福を追求するための最も大きな役割を果たしてきたし、これからも果たすことができると確信し、私の論を閉じます。

「大きな橋渡しと小さな橋渡し ~私が見た竹島と独島~」

文部科学大臣賞
山梨県 山梨英和高等学校2年 野中愛理

去年の夏、私はある島を訪ねる機会に恵まれました。その島は、韓国のウルルン島からフェリーで1時間ほどの場所にあります。簡単に見渡せるほど小さな2つの島で、その島から陸へとつながる橋はなく、広い海にぽつんと浮かんでいます。切り立った黒い岩が特徴的で、背の低い植物だけがその岩にしがみつくように生えています。長く日本と韓国の間で問題となっている、何の変哲もないこの島は、日本では竹島、韓国では独島と呼ばれています。

私は去年の5月から12月にかけて、山梨英和高校の姉妹校である、韓国の梨花女子高校に留学しました。韓国語はまったく話せず、文化もあまりよく知らなかった私にとって、韓国での8ヶ月間は驚きでいっぱいでした。おいしくて辛い食べ物や、活発な人々に囲まれた毎日はとても充実していました。けれども、私の留学は楽しいだけではありませんでした。その大きな原因は、日本と韓国に横たわる歴史の爪あとに触れたことです。

私の留学の目的の一つは、日韓の歴史を学ぶことでした。そのために、私は梨花女子高校で歴史クラブに参加しました。活動の中で、私は何度か両国の歴史に対する捉え方の隔たりを感じました。また、今なお残っている問題が沢山あるのだと痛感しました。その問題に正面からぶつかったのは、夏休みにクラブで竹島・独島に行ったときでした。

竹島の領有権についての問題を学ぶため、歴史クラブが企画した旅で、私たちは独島に一番近いウルルン島に2泊3日間滞在しました。ウルルン島では博物館に行き、島の歴史について学びました。

独島に行ったのは2日目でした。島に渡るにはとても厳しい制約があり、韓国人でも一般の旅行客が独島に行けるようになったのは、つい最近のことだそうです。実際に島にいた時間はたったの5分ほどでしたが、その時見た景色は私の眼にはっきりと焼き付いています。

旅の途中、行く先々で私は日本に対する批判的な意見や、独島は韓国の領土だと主張する声を聞きました。そのたび、参加者の中の、たった一人の日本人であった私は、いったい何が正しいのだろうかと悩み続けました。答えの全く見えない問いに、考えることを投げ出したくなりました。

そんな私に、旅の帰り道で歴史クラブの先生がおっしゃった印象深い言葉があります。

「一つの物事を、一つの視点からしか見られなかったり、考えられなかったりする人は心の狭い人だ。沢山の視点から見ることが、大切なんだ。だから、悩んだっていい。無理に答えを決めなくてもいいんだ」と。この言葉は私を強く勇気付けてくれました。

私は韓国での留学を通して、国同士の問題を解決することは、本当に難しいことで、時間のかかることであると実感しました。どちらの国にも言い分があり、どちらかを正当化することはできません。異なることを主張しあうとき、そこには必ず摩擦やすれ違いが生まれます。それを避けて通ることは出来ないのだと、私は思い知りました。今でもニュースで日本と韓国の間にある問題について聞くたび、私の中にどうしようもないもどかしさがこみ上げてきます。

小さくて無力な自分に何ができるのか。そのことを考えて、私が出した答えの一つは、互いに認め受け入れ合うということです。歴史クラブの先生の言葉にあったように、様々な視点から物事を見つめ、考える。そして、それを他の人へとつなげていくことで互いの理解が深まるのだと、私は信じています。今の私にそのような橋渡しができるのは、限られたとても小さい範囲です。けれども、国同士の大きな橋渡しができる機関があります。

それは、国連です。竹島問題について調べていた時、私は双方の意見を中立的な立場からまとめた資料がないことに気が付きました。国連が例えばそのような資料をつくり、情報を発信してほしいと私は考えます。

国際化の社会にあって、国連が担う大きな橋渡しはこれから先、より重要になってくるのではないでしょうか。

私が見た竹島・独島は、戦争の歴史へとつながる背景を持つ、日本と韓国の対立の象徴でした。海にぽつんと浮かぶこの島に、橋は架かっていません。けれども、いつかここに人の心と心をつなぐ橋が架かってほしいと私は思います。いつかまた竹島・独島を訪れるときに、私の目に映るこの島が和解の象徴となるためにも、国連は大きな橋渡しを、そして私自身も小さくても対立から和解への橋渡しができる人になりたいと願っています。

「世界の平和と安定のために国連がすべきこと」

財団法人日本国際連合協会会長賞
長崎県 長崎県立佐世保西高等学校 2年 永間 佑菜

私は被爆地、長崎県民でありながら、被爆者の方のお話を直接聞いたことがありませんでした。私は世界で唯一の被爆国、日本にいながら、核兵器の恐ろしさについて、机の上の知識だけしか持ち合わせていませんでした。皆さんは、被爆県民として、被爆国民としてどんな知識を持っていますか。戦争はいけない、過ちは二度と繰り返してはいけないと、大勢の人が口をそろえて言いますが・・・。

私には隣の県に従姉妹がいます。ある年の夏休み、祖父母の家に集まっていた時のことです。八月九日を前にして、登校の準備をしていた私に対して、従姉妹が何気ない様子で「なんで九日。学校休みやろ。」と言いました。「九日は登校日やけん、課題の提出日にもなっとるよ。」そう当たり前のように答えた私は、従姉妹が次に発した言葉に凍りつきました。

「えっ。八月九日って何の日。」従姉妹の住む県では、原爆の日に学校で平和学習を行うことはないそうです。「八月六日午前八時十五分と、八月九日午前十一時二分のサイレンは犠牲者のご冥福を祈って黙祷」そう当たり前に教わって当たり前に実践してきた私にとって、原爆の日を従姉妹が知らないということは、耳を疑うことでした。その事実に深い悲しみと恐怖を覚えました。

今年、私は高校生一万人署名活動に参加しています。これは核兵器の廃絶と平和な世界の実現を目指して、核廃絶の書名を集め、国連へ届ける活動です。届けられた署名は、国連を訪れた人みんなの目に見える所に置かれています。

ところで、この活動をする中で、被爆者の方からお話をうかがう機会がありました。「ピカドンの後は、まるで生き地獄だった。いっそ死にたかったけれど、周りにある死体の山を見ると、怖くて死ぬ勇気が出なかった。」涙ながらのその言葉が、今も強く胸に残っています。

このような経験から、私は少しでも知識を深めようと、国連の平和活動について調べてみました。すると、国連は、核兵器の広がりを防止する、核不拡散条約や包括的核実験禁止条約、非核地帯を設立する条約などにおいて、中心的な役割を果たしていたのです。それに、原子力の軍事的利用を防止し、平和的利用を防止し、平和的利用を促進するために設立された国際原子力機関、IAEAも国連の機関の一つです。IAEAは原子力発電所から生ずる物質が軍事目的に転用されないようにする監視の役割も担っています。このように国連なしでは世界の平和は保たれないのです。

とはいえ、国連は万能ではありません。そもそも強制的に核廃棄をさせる能力はないのです。加盟国の意思に行動が左右されてしまうのも、国連の現実なのです。

しかし、私たちは国連に希望を託さなければいけません。今回の大震災の被害拡大を受けて、「平和のための原子力」という考えが妥当かどうかを見直さなければなりません。世界中の原子力発電所をなくすことはなかなか難しいでしょうが、それでも、これまで以上に設置の基準を厳しくしたり、事故が起こらないような対策を強化したりして、安全のための最低限のルールを設けることはできるはずです。もう二度と、この世界から被爆者を出さないために、世界中の人々が手を取り合って平和を実現させる活動のリーダーとして、国連にその役割が期待されます。

終戦の日から今年で六十六年目となりました。被爆された方々が高齢化し、語り部の方々も次々とおなくなりになっています。私たちは被爆者の方から直接お話しを聞ける最後の世代でしょう。今、私たち高校生にできることは何でしょうか。それは、核について正しい知識を持つことです。そして、一つ一つの問題を、自分に関係あることとして捉えることです。

ノーモア、ヒロシマ。ノーモア、ナガサキ。ノーモア、フクシマ。この言葉を胸に世界平和のために、私は力を尽くしてゆくつもりです。